説教塾

書評: 加藤常昭『文学としての説教』 (日本キリスト教団出版局、2008年)


説教のパラダイム・シフト


平野克己

 本書は、刺激に満ち、チャレンジングな書物である。本書を土台にして、日本の教会に新しい説教と説教学が生まれていくかもしれない。そんな興奮に満ちた期待さえ湧き上がってくる。
 世界は音を立てながら変化し続けている。しかも神は、今も教会を通して、この世界に向かって生きて語りかけておられる。それゆえ、いつの時代にあっても教会には変化が求められる。教会は、御言葉によって絶えず改革され続ける存在である。
 今日の教会の礼拝に関して言えば、数々の努力が重ねられてきた。ローマ・カトリック教会による典礼刷新運動に導かれ、プロテスタント教会においても、過去の豊かな伝統の中から礼拝における共同体的・祝祭的・ドラマ的要素を再発見しようという視点そのものについては、大まかな一致を認めることができるだろう。実際に、日本中の礼拝堂で会衆席の配置のしかたに変化が起こっているし、各教派から新しい賛美歌集と新しい礼拝式文を刊行する試みが続いている。
 しかし、礼拝の中心である肝心の説教に関しては、今なお停滞が続いているように見える。もちろん、説教塾が20年継続していること、しかも200名にも及ぶ教派を超えた説教者たちが相互研鑽を行っていることは、日本プロテスタント伝道150年の歴史の中で画期的な出来事である。また、日本キリスト教団出版局から刊行されている、季刊『アレテイア説教黙想』もまた、歴史批評による聖書学の席巻によって隅に追いやられた説教黙想に光を当て、説教壇に変化をもたらすことを願って刊行され続けている。しかしそれでもなお、伝道の不振が叫ばれて久しいのに、伝道の中心的な役割を担う説教の変化については、まことに遅々とした歩みであるように思える。
 そこに、説教塾の主宰者であり『アレテイア説教黙想』の編集主任者でもある、加藤常昭による新しい書物『文学としての説教』が登場した。同書は、後に見るように、完結した書物とは言えない。しかしそれでも日本の説教史において、ひとつの時代を画する文献となる可能性を秘めている。それほどに重要な書物である。
 本書における加藤常昭の主張そのものは、まことに明快である。説教において、文学というパースペクティヴを再発見し、そこから説教を再構築することで、説教の言葉の力を回復しようと提言するのである。
 その主張は、ある人びとには、過激な主張として響くだろう。というのは、「一切の人間的なものの死こそ、説教の主題である」とのトゥルンアイゼンの主張に代表されるように、文学的な味わいを払拭することこそ、今なお説教の目標とされることが多いからである。それゆえ説教は、〈解釈と適用〉〈命題と論証〉という論文形式の枠組み(パラダイム)に基づいてイメージされ、多かれ少なかれ、〈説明して教える〉という講義スタイルの語り口によって行われている。しかし、そのような伝統的な説教観に対して、本書は一種の枠組みの変更(パラダイムシフト)を迫るのである。
 著者の主張は、単に説教を感動的なものとするために、説教の言葉に文学という衣装をまとわせようというところにはない。むしろ、聖書自体に文学的な特質があり(第2章「文学としての聖書・文学としての説教」)、それゆえ、説教執筆という最終段階にではなく、説教黙想それ自体に―――そこには第一の黙想も含まれるだろう―――イメージと想像力という文学的な力が要請されるのが必然なのである(第3章「文学としての説教の可能性と必然性」)。そうして、説教を文学パースペクティヴから捉える重要性を、第1章では植村正久と竹森満佐一の説教を取り上げて説教の側から(「文学パースペクティヴの再発見」)、第4章ではいくつかの小説や詩を取り上げて文学の側から(「文学との対話に生きる説教者」)明らかにしていく。そして最終章では、イーヴァントと竹森の説教を取り上げ、その文学的な力、想像力に満ちた言葉の力を浮かび上がらせてみせるのである(第5章「文学的説教を読む」)。
 この間、日本の聖書学者並木浩一の想像力論、組織神学者芳賀力の物語の神学と対話し、さらに現代の説教学の潮流の担い手である欧米の説教学者たち―――ウィリモン(アメリカ)、イミンク(オランダ)、メラーとニコル(ドイツ)、グレツィンガー(スイス)―――に耳を傾けていく。そのような作業を通じて、文学というパースペクティヴを縦糸に置きながら、そこに神学諸学科の現代的潮流、説教学の欧米の現代的な所見をたぐり寄せ、日本の説教という場所にひとつの豊かな織物を紡いでいくのである。
 本書は、著者のこれまでの数多くの文章と比べても、独特な色彩を放っている。たとえば、本文の前後を挟む「プロローグ」と「エピローグ」は、著者と仮想読者との会話として記される。また、長い引用を行い(幾篇かの説教は全文掲載している)、著者自身の経験を豊かに語り(あえて〈文学とは何か〉ということへの定義を行わず、著者自身の文学経験を紹介することに言葉を費やしている)、しかも直線的にではなく螺旋状に、同じ主張を積み上げていく。そのようにして、読者の想像力を喚起しながら、説教をめぐる対話の中に引きずり込んでいく。叙述自体が文学的なのである。
 また、本書において、著者は自身の思索の揺れを隠していない。第一章では「説教者は……フィクションを語りはしない」(25頁)と語り始めながら、エピローグでは本文の脱稿後に手に入れたグレツィンガーの最新刊から「(説教から)フィクションの世界は排除できない」という発言を紹介して、「説教はフィクションである」という命題を肯定的に捉えてみせている(256頁以下)――――ただし、その微妙なニュアンスについては、直接本書を読んでいただきたい―――。ここでも、読者は著者との対話に導かれることになるだろう。
 さらに、本書は「暫定的結語」をもって締め括られる。著者は思索途上にあることを明らかにしながら、読者を次のように招くのである。「ある方が、『暫定的』というのがいつまで経っても取れないのが、加藤常昭の特質だと言われました。私もそう思っています。まだまだ問い続けるでしょう。読者の皆さん、説教塾の仲間たちとも問い続けていきたいと思っております」(263頁)。
 その著者からの誘いを素直に受けて、著者が多くの人びとと対話する言葉に耳を傾け、また時にはその対話に加わりながら、著者が導く旅を辿るとき、必ずや新しい視界(パラダイム)が開けてくるはずである。
 私自身のひとつの問いは、著者が描き出す説教における文学パースペクティヴという主張に深く同意しながらも、同時に、説教にとっては説教者という肉体と声が不可欠な要素とされていることが真剣に顧慮されなければならないのではないか、という点にある。文学という言語芸術という視点と共に、演劇やオペラや詩の朗読のような肉体と声をともなう芸術ジャンルとの関わりから捉えられたとき、なおいっそう説教の特質を描き出せるのではないだろうか。この点について、本書は説教を「パフォーマンス」として捉えるニコルやグレツィンガー、あるいは現代のアメリカの説教学の主張を紹介してはいるが、さらに大胆に、もう一歩近づいて行ってもよいのではないだろうか。
 いずれにしても、本書を通して、現代の世界の説教学の所論にふれることができるということだけでも貴重な本であるし、これらの問いは、著者の労作に助けられながら、共に思索を続けていくべきことであろう。
 著者は今年80歳を迎える。若い頃から変わらない説教への透徹したまなざし、そして同時に、開かれた思考と好奇心、そして何よりも、日本の説教に対する強い情念(アフェクション)に畏怖の念を抱く。


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