説教塾

加藤常昭著 説教黙想集成1 解説 p22-27より

講解説教の生成の過程


B. 聖書の言葉の立体化の過程


 このプロセスは、聖書が今ここにおける神の言葉として語り出すに至るプロセスです。遠い昔に遠い地域で語られ、書き留められた言葉が今ここにおいてひとを捕らえ、教会の群れを形成する霊的な言葉になる過程です。書物に印刷されている聖書の言葉が立ち上がってわれわれに迫る言葉になる過程です。これを私は聖書の言葉の立体化の過程と呼びます。そのようにして講解説教が生まれてくるという意味では、「講解説教生成の過程」と言うことも可能だと思います。冷凍されているかのように思われてしまっている聖書の言葉の解凍過程とも言えるかもしれません。
 この講解説教における聖書の言葉の立体化の過程をいくつかの段階に分けて整理することができます。これが説教準備の過程の諸段階をも意味すると思います。それぞれの段階の説明はあとにして、その輪郭だけをまず描いてみます。

第一の段階 第一のテキストから第二のテキストヘ
第一のテキストとは、礼拝において会衆と共に読む聖書テキストのことです。原典ではありません。われわれに生きるキリスト者は、日本語に訳されている聖書を神の言葉として聞き続けます。ヘブライ語やギリシア語で読んではおりません。これは忘れてはならない大切なことです。説教者はこのテキストについて集中的な黙想をすることから、その準備作業を始めます。祈りをするのは当然です。そこで既に神の言葉を聴き取ろうとします。その意味ではまず受動的です。しかしまた自分で聖書の言葉を読み解く能動的な姿勢も求められます。しかも自分の説教を聴く聴き手のための牧会者らしい黙想も求められます。この過程を第一の黙想と呼びます。この第一の黙想から生まれたテキストを第二のテキストと呼びます。

第二の段階 第二のテキストから第三のテキストヘ
次に聖書テキストを原語によって理解する段階に入ります。第二のテキストが吟味されます。ヘブライ語やギリシア語原典そのものを読みます。あるいは少なくとも諸翻訳、注解書によって原典にできるだけ接近しようとします。注解書の助けにより歴史の中の聖書の言葉の意味をできるだけ忠実に捕らえるのです。この場合の解釈は過去に遡ると共に、過去から現在に至るテキスト理解の歴史を辿ることでもあります。聖書テキストが歴史のなかで生まれ、歴史において読まれてきたことを真剣に受け止めます。この歴史的釈義の過程から生まれたテキストを第三のテキストと呼びます。

第三の段階 第三のテキストから第四のテキストヘ
第三のテキストについて、再び黙想が行われます。これを第二の黙想と呼んでおります。これがいわゆる説教黙想の過程です。刊行されている説教黙想あるいは説教の助けを借りると共に、自分の説教の聴き手の現実についての考察がなされ、それにふさわしい説教の言葉の内容を追求します。説教の言葉となる自分の言葉の発見のための基礎作業です。一方では、神学的な釈義が深められ、他方では、牧会的な理解・考察が深められます。ルードルフ・ボーレンが言う〈聴き手の創造的発見(die Erfindung der Hörer)の過程でもあります。この第二の黙想から生まれたテキストを第四のテキストと呼びます。

第四の段階 第四のテキストから第五のテキストヘ
第四のテキストは、そのままでは、説教とはなりません。説教の原稿として整えられなければなりません。すべての言葉を書き記した原稿を作成するか、語るべき言葉の要点、主要な文章を書き記した簡略な原稿とするか、いずれにせよ、いかなる言葉を語るかが、ここで厳密に、実際的に追求されます。説教の原稿として確定されたテキストの言葉を第五のテキストと呼びます。

第五の段階 第五のテキストから第六のテキストヘ
第五のテキストとしての原稿に基づいて説教卓で実際に語られる説教が、礼拝の現実的な出来事の中で一回的に語られる神の言葉として、初めて本来的な意味における説教となります。この説教においてこそ聖書のテキストが会衆に向かって語るということが起こります。この時のテキストを第六のテキストと呼ぶことにします。この第六のテキストは決して第五のテキストと同じではありません。何らかの形で整えられた第五のテキストと呼び得る説教がそのまま原稿として読まれたとしても違った言葉です。まして語られる言葉として説教がまさに〈立ち上がる〉ために、ここでもなお説教の努力が続きます。

第六の段階 第六のテキストから第七のテキストヘ
聴き手は、それぞれにこの説教、すなわち第六のテキストを聴き取ります。同じ説教ですが、それぞれに違って理解され、記憶されるでしょう。しかしまた、共に礼拝しつつ聴いた同じ聖書の言葉が生きて働いています。共通のメッセージを聴き取っているはずなのです。この聴き取られたテキストが各個の信仰者、求道者の心に保持され、その生活を形成します。また教会を形作る力として働き続けます。これを第七のテキストと呼ぶことにします。


説教セミナーでしていること

今述べた諸段階が説教準備の作業に反映することは言うまでもありません。ただし、実際の作業そのものは、いつもこの全段階を順序正しく辿るとは言えません。順序を異にすることもあります。どこかを省略することもあります。いずれかの段階の作業に特に集中して時間も力も用いるということもあります。しかし、ここに記した段階が必要であることをわきまえ、簡単にいずれかを無視することはしないほうがいいと思います。無視すれば、そのことによって生じる間違いや不完全さを避けることができなくなるかもしれないのです。特に説教を学ぴ始めた者は、この段階をきちんと踏まえ、さしあたっては、できるだけこの順序を守って作業することを習得することが望ましいと私は思います。
 説教塾のセミナーでは、この作業を同労の友と共に吟味しつつ踏んでいく体験をすることになります。そのような実際的な作業を体験することによって、〈作業感覚〉とも言うべきものを体得することができるようになります。つまり、ただ単に、この諸段階についての論理的な説明を聴いただけでは不十分なのです。心身をもって体得すべきものがここにあると思っております。実際に説教を作成し、語る時には、自分の独自の道を辿る者であっても、このような諸段階についての考察をし、理論を学ぶことによって、自分が今何をしているのかを常に自覚的にわきまえ、それにふさわしい自己批判・吟味を続けることができるようになります。セミナーにおいて、いわば講解説教生成の諸段階を体験するのはそのためです。そこでセミナーは何日もの日程を必要とすることになります。
 右の諸段階は、私のよく用いる言葉で言えば、説教準備において働くさまざまな〈パースペクティヴ〉を段階的に整理し、吟味することでもあります。これらの段階がそれぞれの固有性を持つのは、そこで働くパースペクティヴの固有性によるのです。実践神学的バースペクティヴは、いくつかのものが同時に働いてわれわれの作業を規定することが、まことに多い。むしろそれが当然です。たとえば、辞典や注解書の助けを借りて釈義の作業をしていながらも、第一の黙想や第二の黙想に属するパースペクティヴが同時に働いていることがとても多い。それがむしろ実際の説教準備の姿です。そのようなパースペクティヴの混在があるからこそ、そこで方法において混乱し、過ちを犯すことがないように、こうした、説教の方法に関する批判的な吟味をしておくことが必要なのです。
 説教学の効用は、こうした説教の準備の過程において計られます。一般にそのように理解されておりますし、それは間違ってもいません。しかし、気をつけたいのは、その作業をより広い視野、より豊かなパースペクティヴにおいて捕らえておきたいということです。説教は、聖書テキストと説教者とのひそかな出会いから始まり、その説教を聴くことによって、聖書テキストと会衆とが出会うまでにまで至る過程において把握されます。聴いた者たちの生活のなかで、そこでこそ、聖書の言葉は生きて働くのです。それは、主日礼拝後の会衆の生活が決定的な意味を持つということではありません。説教が何を語ろうと、それを教会の者たちが、自分の生活で生かさなければ意味がないというようなことではないのです。もしそう考えるのであれば、それは、むしろ神の言葉の持つ現実性の意味を理解してもいなければ、信じてもいないということになります。
 まず何よりも、説教は、それが語られた礼拝を礼拝たらしめることにおいて、その使命を果たします。まだ信仰を理解していなかったひとに説教が通じたとき、そのひとのこころのうちにある、それまで隠されていた罪が明らかになり、悔い改めつつ「まことに、神はあなたがたの内におられます」という告白をするということが起これば、それで、その責任を果たすことができたのです(コリントの信徒への手紙一第一四章二五節)。そして、そのように聴き取られた神の言葉が、集まった者たちのいのち、生命力になります。キリストのからだを造る者たちの生活を造ります。そのような意味において、第一のテキストから始まり、最後は、その将来を開かれたままの第七のテキストに至るのです。
 ドイツの説教学では、一般的に言えば、釈義をし、黙想をして、説教をするという三段階を考えます。それぞれが説かれます。この三段階が、英米の説教学においても、表現が違うようであっても、結局は同じように念頭に置かれているものと思われます。しかし、ここでは、それを更に拡大しています。これはただ三段階を、倍の六つの段階に広げたということだけではありません。釈義、黙想、説教という三段階の理解に見られるのは、聖書テキストが、最初は、歴史的次元において捉えられ、まず過去の文献とされ、その歴史的な意味を釈義で明らかにし、それを黙想によって現在化し、それを説教によって、われわれの言葉として言い表すということになるという、テキストを現在化する過程こそ、説教準備の過程であるとする考え方です。それは、近代に入ってキリスト者を支配するようになった聖書観と結びつく説教理解です。ここでは、そのような考え方でよいのかを問うのです。聖書は、ただ歴史的に過去のものではなくて、今ここで、それ自身が語っている言葉です。聖書はそれ自身において今ここにおける言葉です。聖書についての信仰、ないしは神学的理解が、改めて問われるところでもあるのです。
 いずれにせよ、この諸段階を説教塾セミナーでどのように考え、どのように実践しているかを語ってみます。いわゆる説教黙想は第二の黙想の段階に属しますが、それを正しく理解するためにも全段階を語っておくことがよりよいことと思います。なお、本書の第三部で書簡テキストについての黙想を紹介しておりますが、そのなかで、ヨハネの手紙一を説く説教を私が実際にしたときの全過程のノートを発表しております。説教をどのように準備し語ったかを具体的に辿ることができます。これも参考にしていただけるとありがたいと思います。