説教塾

加藤常昭著 説教黙想集成1 解説 p20-22より

講解説教の生成の過程


A. 神の言葉の説教は神の言葉である


 聖書は、神の言葉であるとわれわれは信じております。われわれを支える共通の説教理解を言い表すひとつの重要な文章は第二スイス信条の命題です。「神の言葉の説教は神の言葉である」。前者の「神の言葉」は聖書を意味します。後者の「神の言葉」は今ここで聴く神の言葉です。大切なことは、聖書の言葉がそのまま神の言葉であるとは言っていないということです。聖書を説く説教があって初めて聖書が神の言葉となる、ということです。
 講解説教は、一書を連続して説き続ける講解説教であろうと、一回限りの講解説教であろうと、聖書の言葉がそのまま朗読されればそれでよいというのではなくて、それが説教の言葉となって聴き手に届くことがあって初めて神の言葉になるということを真剣に考え、そこに自分の課題を見出します。それは、聖書の言葉が、常に新しく語り出す神の言葉だということだとも言えます。いつも今ここにおける神の言葉となるのです。われわれは、その言葉を聴くために祈り、また備えます。その言葉が語り出されるために自分の説教が用いられることを信じます。そのための言葉をどのように語れるようになるかを問い続けます。聖書の言葉が、今ここで生きた言葉となることを信じるからです。そのとき、われわれはその聖書の言葉に自分が捕らえられるために備えます。われわれが聖書の言葉を動かして現代にも通用する歴史の言葉とするのではありません。聖書の言葉が、今ここでわれわれを動かす言葉となることを待望するのです。そのために聖書を読むのです。聖書を通じて神が語ってくださる言葉がわれわれを捕らえることを期待し、信じて、われわれが読むのです。詩篇第一一九篇一三〇節は忘れ難い言葉です。聖書学者であり、説教者としても私に大きな感化を残しくださった渡辺善太先生が、まだ若い学生であった私ひとりに大きな声で暗唱して聴かせてくださった言葉です。

御言葉が開かれると光が射し出で
無知な者にも理解を与えます。

 「御言葉うち開くれば光を放ち、愚かなる者をさとからしむ」という文語の言葉を渡辺先生から聴きました。大きな確かな約束の言葉をいただいたと思いました。この「み言葉の光」を待つのです。そこから講解説教が始まります。そしてわれわれ自身がその光の言葉の語り手となる光栄のなかに立つに至るのです。もとより聖霊の働きを待たなければなりません。しかも、それと共に、われわれ自身が確信をもって語り、働くことをも求められます。そのように神の言葉に仕える者として語りかけられ、捕らえられることを信じて探求します。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この主の約束は、ここにおいても信じられるべき、励ましの言葉です。