説教塾

加藤常昭著 説教黙想集成1 解説 p18-19より

説教塾が目指す説教


B. 生けるキリストを紹介する説教


 この聖書を語る説教を大切にしたし、一般的に言っても日本の説教者の大先輩と言える植村正久が語った言葉があります。説教塾では常に思い起こされる言葉です。

 今日基督教の伝道を見るに、西洋基督教文学の御蔭に由り、其の霊性上及び倫理上の作用詳細に知らるるの便あるを以て、贖ひの手続、信仰発達の順序、霊性上の実験を試みるの方法等に至るまで畠水練の如き講釈は甚だ盛んなれど、実際はそれほどにも行かざるを嘆息するのみ。此は事情の止むを得ざるものありて免れ難き弱点なるべしと雖も、斯る弊害の存在することを記憶して用心怠りなきこと肝要なり。特に注意すべきは説教の調子にぞある。多くは基督如何にして人を救ふや、信仰は如何にせば養はるるや等の順序方法を分解的に講釈するに止まり、基督自身を紹介し、其の恵を真正面より宣伝して人の信仰を催すの気合に乏しと謂はざるべからず。宛ら庸医が病人の傍にて病理解剖の講釈のみ事とするに同じ。余輩は説教及び凡ての伝道が今一段直接になりて、切に入を勧め誘ふの分子多からんことを望む。即ち人を教へんとするよりも、寧ろ人を悔改に導かんと試みるものならざるべからず」(『全集』第五巻五二四ぺージ以下)。

 植村は説教を「御前講演」、などとも呼んだようです。それもまた生けるキリストの現実を常に意識した心がよく現われております。説教は、このキリストに根ざし、この現実を伝達することをもってその任務とします。
 生きておられるキリストを紹介し、その恵みを正面から説くこと、これこそわれわれが願っていることです。それは何よりも聖書を語る説教ですと信じております。そしてそのために聖書をどのように説いたらよいかに集中します。説教塾は伝道者の集まりです。伝道は何よりもわれわれが説く説教を通じて進められます。そのような説教によって伝道ができるか。それがわれわれの説教批判の急所です。