説教塾

加藤常昭著 説教黙想集成1 解説 p17-18より

説教塾が目指す説教


A. 聖書を語る説教


 説教セミナーを支えるのは、説教とは何かについての共通理解です。その説教理解を私が代表して語っていると言えます。ここで丁寧な説教論を書くことはできません。私がこれまで発表してきた著書を参照していただけるとありがたいと思います。
 そこでいつも志しているのは、聖書を語る説教です。聖書について語る説教とははっきり区別しております。キリスト教会の説教はさまざまに分類されます。最もよく知られている二大区分は主題説教と講解説教の二種類です。そのいずれも更に細分化できますが、まずこのふたつを考えてよいでしょう。今日では教派を問わず、講解説教が主流になっていると思われます。しかもこの場合の講解説教は、聖書のなかの一定の文書を連続して説き明かしていく連続講解説教を意味すると言えます。実に多くの説教者がこの方法を取っております。しかし、日本のプロテスタント教会のやがて一五〇年を数えることになる歴史においては、こうした連続講解説教が主流となることはほとんどありませんでした。先の分類に従えば、主題説教を語る説教者が圧倒的に多かったと思われます。しかし、外国で主題説教と言えばすぐに考えられるような教理的主題や倫理的主題が論理的に説かれるということは少なかったようです。何よりも日本の説教者たちは伝道者でした。その意識が明瞭でした。主日礼拝は伝道のための集会を意味しました。日本社会において、日本の魂に語りかける伝道の使命を自覚した説教者たちが、福音の中核にあると信じるものを、社会との対話、あるいは対決を志しつつ語るとき、それは明確な主題となって説くことが適切であると信じていたのではないでしょうか。説教を聴くことによって救いにあずかりたいと願って来会するいわゆる求道者に語りかけるのには、救いの急所を鋭く言い表し、説得しようとしたのです。伝道のためにも弁証のためにも、あるいは牧会者として教会を養うためにも、説教者自身が今いちばん語りたいことを主題として説いたのです。そのときに大切にしたのは聖書を説くことでした。聖書が語る救いの出来事を語ることでした。近ごろは〈物語の説教〉という説教理解が主としてアメリカから入ってきました。それはアメリカの説教に大きな変革をもたらしたものです。しかし、日本ではそれほど大きな関心を呼び起こしておりません。なぜかと言うと、伝道の初めから日本の説教者は聖書を物語ることを知っていたと思っております。